エッセイ

僕の旅は予定不調和化することで生まれ変わった。

いままで、色んなところを旅してきた。旅が本当に好きなので、思い立ったそのときに、軽率に、住んでいる町を捨てて飛び出してしまう。勢いのままに色んなところを訪れては、日本で決して味わうことのないような景色や文化に触れ、そのたびに心が潤っていく感覚を楽しむ。

そんな僕が、ちょうど30歳を迎えた春、旅に飽きてしまった。

世界一周を終えて、行きたいと思っていたところに一通り行くことができたせいか、旅というフレーズを聞いても、まったく心が踊らなくなってしまったのだ。

一番の理由は、旅が簡単になりすぎたことにある。行きたいところに行くとき、grabやuberを使って近くまで行き、google mapを片手に歩けば、大して労せずに目的地へたどり着くことができる。食べたいものを食べるときも、google翻訳と簡単な身振りを使えば、問題なく目的のものにありつける。

旅に予定調和が組み込まれてしまった。

予定調和な旅、いわゆる「旅を日常に」はずっと憧れてきたし、実現したいと思ってきたけど、いざ日常にしてしまうと、あまりにも息苦しく、つまらなくなってしまうのは、悲しいかな、人間の性である。

そもそも、「旅」と「旅行」を区別する自分の中での明確な定義は、「ワクワクがあるかないか」だった。

旅にワクワクを感じなくなった僕は、自分の中で旅を再定義するために、旅に飽きていながらも、何度か日本を飛び出した。

ハロウィーン時期のアメリカのニューオーリンズはとても新鮮だった。街中はどこもかしこも暖かい音楽であふれている。そんなキラキラしている街の至るところで、仮装をしながらねり歩く子供たち。近所の家をくまなく訪れては「trick or treat!!」と大声を上げる。大げさにリアクションを取る大人たちは満面の笑みを浮かべながら、子供たちにお菓子を手渡していく。

大人たちだけがお酒を片手にただ騒いでいる渋谷のハロウィーンとは似ても似つかないほっこりする光景に、気づいたら無意識ににやけている自分がいた。

——なるほど、自分の知らない文化に、そして人に触れるのが旅の醍醐味の一つだ。感情を大きく揺り動かしてくれるものはいつだって旅と人の中に存在する。

大気汚染が深刻なネパールのカトマンズはとても刺激的だ。砂と埃の匂いで充満している狭い路地には今だにストリートチルドレンが住んでいる。道を歩けば客引きや乞食、薬の売人、体重計り屋がひっきりなしに声をかけてくる。同じようなチョーク(交差点)と小道が幾重にも折り重なって迷宮都市を形成している。

迷路を何日間もかけて攻略して、自分の頭の中に地図が描けたときの快感は何物にも代えがたい。そこら中ですれ違う旅行者に片っ端から秘密の近道を教えたくなる。

昨晩、何度も交渉を重ねても決して安くならなかった天然麻の鞄が、早朝お店を再訪するとびっくりするほど安く買えたりする。「朝早くにお客に商品が売れると、お店は1日繁盛する」という言い伝えがあるからだ。

——ふむ、自分の知らない文化で、かつ自分の友達も絶対知らないような体験ができて、「早く誰かにこの話をしたい!」と思った時が旅を満喫しているときだと気づいた。

英語のまったく通じない地域・中央アジアに位置するカザフスタンを経てキルギスに入国するときの出来事が印象的だ。何度も何度も行き先を確認してカザフスタンから乗った高速バス。夕方に乗りこんで、到着するのは早朝予定。窓から見えるダイナミックなヒマラヤの山々にも、1時間もすれば暗くなってしまい、何も見えなくなったタイミングで寝落ちた。

ふと誰かに肩を揺さぶられて眠りから覚める。深夜3時。手振りで「着いたから降りろ」と伝えられたが、暗闇とは言え、辺りには何の建物の姿もない。地図アプリで現在地を確認してみるが、越えるべき国境から10km程度手前。wifiも無いため通訳アプリも使えず「キルギスに連れて行ってくれ」と頑張って乗務員に伝えたが、「ここがキルギスだ! 早く降りろ!!」と押し切られる。寝ていた乗客たちも不機嫌そうにこちらを見ながら、恐らくヤジであろう言葉を投げかけてくる。

満場一致で仕方なしに降りた場所は、本当に、何もない。あえて言うなら、コンクリートの道と荒れ地と空と僕しか存在しない。僕を乗せたバスが見えなくなる頃、完全な静寂に包まれた。さすがに気が気じゃなくなった。「え、これ、暗闇の中を寝起きで10kmも歩かなきゃならないの?」と、思わず独り言が口を通じて漏れ出た。それと同時に「あぁ、これが旅だ。これだよ、これ。」と湧き出るアドレナリンに妙な納得をしてしまった。「ワクワク」が止まらなかった

とりあえず国境方面に向かって歩き出すと民家が見えてきた。地図アプリを見ると、少し歩いたところにモスクがあるのを発見した。イスラム教徒は深夜でも早朝でもお祈りをする、というかすかに聞いた記憶にすがり、モスクに足を向けた。目論んだとおり、まばらに人を確認できた。

さて、どうしよう。英語の通じないカザフスタン人にどうやってこの状況を伝えよう。と悩む暇なく声をかけられる。身振り手振りで必死にお願いをする僕と、どんどん集まってくるカザフスタン人。20人くらいに囲まれて本気で死ぬほど怖かったけど、精一杯伝えた。

どうにかこうにか伝わったようで、車に乗るよう誘導され、7人乗りの大型バンに男7人で乗り、「この人たちが、実は悪い人でどこかに連れ去られたりしたら、身ぐるみ剥がされて死ぬんだろうな」と諦めの混ざった覚悟とともに車は発進した。そして、あっけなく、国境についた。めちゃくちゃいい人たちだった。半分涙目で全員とハグをして感動的に別れた。

——そうか。

予定不調和な旅こそが、自分の求めていた旅だ。
旅を予定不調和化することで、「ワクワクの有無」の定義は変わらないままに、自分の中の旅が再構築された。

逆にいえば、予定調和をあえて崩すことで、旅に「ワクワク」を付与できるということだ。マップアプリを使わないとか、旅先の情報を事前にまったく調べないとか、そもそもスマホを持って行かないとか。そういう「縛り旅」が旅を予定不調和化させる。

再び旅の良さに気づいてからは、僕の旅欲が返ってきた。僕が旅に出る原動力は「ワクワク」をもう一度味わうためだと胸を張って言える。予定不調和な旅の中で、新しい文化に触れて、新しい考え方を持つ人に触れたいのだ。

旅をアップデートした僕は、これからもずっと、旅を続けるだろう。